英国のスイーティー、ベルギー視察 (5)

1989年4月16日(日)。早朝にバースを出立。午前中ふたたびコヴェントガーデンの市場付近でチョコレートの見本を精力的に収集した。「クラブトリー&イーヴリン」(Crabtree & Evelyn)を再訪した。プラリネチョコと称されるものはベルギー製が多い。明日からいよいよベルギーに行く。英国のチョコレートメーカーや大規模小売業のOEM供給をしているベルギーのメーカー名をできるだけ集め記録した。ベルギーと英国は近い。英国と取引しているメーカーは多分日本とは取引していないのではないかと推論したからである。

バースへ行くにあたり大きなスーツケースはリッツへ預けていった。午後3時にリッツへ戻り荷物をもってタクシーでヒースロー空港へ向かった。空港でもチョコレートの売り場をあちこち見て回った。そこにはゴディバ(Godiva)とノイハウス(Neuhaus)が隣りあわせで妍を競っていた。今でこそホテルショコラHotel Chocolat)が幅をきかせているが販売されているものの多くはベルギー製のOEM商品である。社長のアンガス・サールウエルAngus Thirlwell)は希代の才人である。もはやゴディバやノイハウスの時代ではなくなりつつある。現代人が自分の味を持っていないのでこのような口八丁のビジネスマンにやられるのである。ホテルショコラについては将来論ずることにする。しかし1989年のときはまだホテルショコラの時代は来ていない。ゴディバもノイハウスも大量生産型ショコラティエの時代であった。店頭では手作りの職人が作ったと宣伝しているが実際は機械で生産している。ごく僅かな品種だけはショコラティエに下請けさせていた。

1989年4月16日のベルギー訪問は全く先の見えない訪問であった。日本を出る前に何も成算があったわけではない。ベルギーには500軒とも600軒ともいわれるチョコレート業者が存在しているのであるから何とかなるという無謀な訪問であった。モロゾフの取引銀行である三菱信託銀行、青年会議所の友人、小西新太郎、(白雪で知られる小西酒造の代表取締役)、ヤマト運輸、ベルギー大使館、小堀商務官の紹介でボヴィ美弥子を頼って乗りこんだのであった。

ロンドンを16時に立ってベルギーのザヴェンテム空港Zaventem Airport)に着いたのは20時であった。そこにはボヴィ美弥子が迎えに来てくれていた。21時30分、ブラッセルの高級ホテル、ロイヤルウインザーホテル(The Royal Windsor Hotel)にチェックインした。

22時に欧州ヤマト運輸の取締役である前田健次とセールスマネジャーの鈴木省司がわざわざホテルまできた。まだ何も決まっていないのにはや輸送の商談とは早すぎる。われわれは輸送については日本通運でやろうと決めていた。ノイハウスの製品を運ぶときに日本通運に依頼していたからである。日本のチョコレート消費量は年間、20万トン余である。アメリカへは1200~1300トンと桁が違う。プラリネを扱うとなると空輸が多くなるのでヤマト運輸も必死で新規開拓に乗り出してきた感であった。しかし国内の輸送についてはダイエーを含めあらゆる点で正確なヤマト運輸に任せていた。ヨーロッパに私が出かけるとあって日本通運より早く挨拶に来たのであった。国内の輸送と同様、ヨーロッパから日本向けの貨物を一手に引き受けさせてほしいと懸命に頼みこむ姿に私は感銘した。

先にも書いたがボヴィ美弥子はベルギー大使館の小堀商務官の紹介であった。私がノイハウスの井戸掘り屋(立ち上げ屋)にされていたことが分かったとき、当時、日本ベルギー協会の会長であった本田宗一郎が親身になって相談に乗ってくれた。ベルギー大使館へ乗りこんでいって大使に会わせろと息巻いた。商務官、小堀公二がまぁ、まぁといってとりなした。彼が紹介してくれたのがボヴィ美弥子であった。彼女は私が来る前から真面目に私の行きたいようなところを小西酒造の小西社長の紹介してくれたトレーサー(TRACER)のヴァンフッセ社長と事前に会ってベルギー滞在中のスケジュールを作成していた。

彼女が渡したスケジュール表には(1)キムズチョコレート(Kim’s Chocolates)。ベルギーでカレボーに次いで2番目にISO 2001 を取得したチョコレート屋。 (2)グッドラン(Gudrun)(3)ノイハウスのプラリネの下請け先。(4)マリーノ(’t Boerinneke Marino)(5)ヴァンフッセ社長のクライアントのオヴィディアス(Ovidias)(6)ダスカリデス(Daskalides)。ベルギーでカカオの一次加工をしているチョコレート業者は皆無であることは前にも書いたが、昔、ギリシャから移民してきたレオニダス(Leonidas)とダスカリデスは一次加工から製造している数少ないメーカーである。(7)これからチョコレート工場を立ちあげるというヴァンダイク兄弟(Van Dyck)(8)ブルージュにあるスペルマリー料理学校(Hotelschool Spermalie)(9)アントワープにあるガ-トナー(Gartner)と盛りだくさんであった。

1989年4月16日、ルーヴァン(Leuven)にあるトライリィング(Trilingue)というレストランでヴァンフッセ社長(Tharsi Vanhuysse)と会った。エラスムスが一時住んでいたと言われるレストランはなかなかの風情があった。その上 Belgian Gourmet という副題をつけたレストランの味は格別なものであった。フランスのレストランでは本来のフランス料理は食えない、伝統的なフランス料理は今やベルギーに行かなければ味わえないと言われて久しい。

<つづく>

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英国のスイーティー、ベルギー視察(4)

英国のスイーティー、ベルギー視察 (4) 1989年4月14日、午前中は再びロンドンのさまざまな業態の小売業を見てまわった。午後、列車でバースへ移動した。1987年にバースの市街地は世界遺産に登録されていたらしいが当時世界遺産は今日のように仰々しく喧伝されていなかった。私がバース(Bath)へ行った理由は、同級生にバースに古いパン屋があると教えられたからであった。その友の頼みでロンドンに行くのであればバースまで足をのばそようと考えていた。バースに物見遊山に行くのは気が引けたが英国の有名なパン屋に行くというのであれば立派な理由がたつ。

昼にロンドンで食べたフィッシュ アンド チップス(fish-and-chips)が胃にもたれて気分が悪い。イギリスを代表する料理と言われると食べないわけにはいかない。けっこう雰囲気のあるブラッスリーを見つけて食べたのであるが油が悪かったのであろう。日本のような油で揚げた天ぷらは、アングロサクソンの人たちには頼りないといわれる。それ故油にショートニングを混ぜることが多い。多分このフライにもショートニングを使っていたにちがいない。いつまで経っても胃がすっきりしない。
1989年4月15日。友人から見てきてほしいと言われたサリーランのパン屋(Sally Lunns)を見に行った。200年前フランスからやってきた職人がパンを焼きだしたという店であるが何の変哲も衒いもなかった。毎日食べるものであれば「くせ」がなくてあたりまえである。パンを焼いているだけではなく、90席あるレストランもある。観光地であるバースだから店のまえはパンを買い求める人の行列ができていた。
海外に出て日本食は食べたくない。これは私の流儀である。日本食はアミノ酸やイノシン酸で味付けがなされている。洋食は塩と胡椒だ。一度アミノ酸の味に触れると洋食が食べられなくなる。しかし、胃をこわすと洋食は困る。胃をこわしたというと外国では、それならハムとチーズにしておけという。私の胃袋はそのようなものを受けつけない。バースの On the Town を見てみた。あった、Chikako’s という日本料理屋があった。このようなところに来ても日本料理屋があるということが感激であった。電話でおなかがおかしいのでよろしく頼むというと、分りましたと。行ってみるとこぎれいな料理屋であった。野菜の炊合わせ、ほうれん草のおひたし、お麩の味噌汁、じゃこの佃煮、海苔、漬け物、白ご飯。大いに日本人である私の胃袋は喜んだ。おかみさんは何処、と聞くと高槻だという。私たちは茨木だ。世界は狭い。
ホテルでリムジンを用意してもらってストーンヘンジ(Stonehenge and Associated Monuments, ID 373-001)とソールズベリー大聖堂(1258年)へ行く。ストーンヘンジは1986年に世界遺産に登録されたのであるが、当時は世界遺産という名前さえ知らなかった。そこで買った ”Stonehenge and Neighbouring Monuments” というリーフレットにもEnglish Heritage と書かれてある。どこにも World Heritage とは書かれていない。ソールズベリー大聖堂では大聖堂修復のための寄付金を募っていた。クリスチャンでもない私が何故か喜んで幾ばくかの金をだした。清涼寺の復興に女房の父が毎月お釈迦様の日に訪れては寄付していることを思いだしたのかもしれない。
4時ごろホテルに帰館してこれからの仕事の段取りを考え、今後世話になるひとたちにファックスを書き送った。ベルギーのボヴィ美弥子(Bovy Miyako)、トレーサーのヴァンフッセ(Tharsi Vanhuysse of Tracer)、イタリアのジャピタリーエクスプレスのアウグストトルリーニ(Augusto Torlini of Japitaly Express)、ミラノのマッシモモリナーリ(Massimo Molinari)にこれからの10日間のスケジュール調整や訪問先についてあれこれ依頼した。
ロイヤルクレッシェントホテル(The Royal Crescent Hotel)についてひとこと。ヨーロッパでも指折りの壮大な半月形のビルディングである。この建物自体がグレード1の史蹟である。それぞれファッサードをもった30棟が連なっており、その長さは500フィート(約150メートル)である。クレッセントホテルはそのビルの中央部の2棟である。テイストと大きさの違う部屋が45室ある。廊下には乾燥した薔薇の花がいっぱい入った大きなガラスボールがあちこちに置かれていた。このポプリ (potpourri)は英国の階級社会を象徴するような香りと目を楽しませるものである。部屋のベッドはヴィクトリア調rのレースの布で飾られた天蓋つきのものであった。別棟のダウアーハウスはグルメレストランとしてその名を知られている。この建物には本館よりさらに華麗なスイートの間が10部屋用意されている。手入れの行きとどいた花壇がある。ウイーンのシェーンブルンにも個人の住める部屋を買うことができるようにこのロイヤルクレッシェントも一棟一棟単位で専門のブローカーから斡旋してもらえる。畏友、横井伸がそこに一棟を所有していることをその時私は知らなかった。
ダウワーハウスのレストランで夕食をとった。宿泊客以外に多くの客でレストランは賑わっていた。 モンクフィッシュ(monk fish カスザメ)を食べたが美味しいとは言えない魚であった。レストランの照明は暗く洞窟の中で食事をとっているようであった。フランスにいた弟が、価格の高いレストランは分厚いコットンの大型のナフキンがあり、室内は暗くローソクの明かりでメシを食うのだと言っていたことを思いだした。<つづく><a href=’http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%B8%82%E8%A1%97&#8242; >%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%B8%82%E8%A1%97</a>

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英国のスイーティー、ベルギー視察 (3)

英国のスイーティー、ベルギー視察 (3)

コヴェントガーデンにあるロイヤルオペラハウスに着いたのは7時半を過ぎていた。すでに多くの観客はオペラの始まる間の楽しい時間をわくわくしながら開幕を待っていた。われわれの座席は2階真正面の位置にあった。19世紀に建てられた由緒あるオペラハウスで時間を過ごせる幸せをしみじみと味わった。日本には歌舞伎座以外は専門のオペラハウスのような専門ホールはない。劇場の中の雰囲気は英国独特のものであった。それはどこにあるのかと考えてみた。パリのオペラ座のもつ雰囲気のなかで英語が聞こえることであったと思う。演目の「皇帝ティトの慈悲」のシナリオはイタリア語である。舞台の両袖にある細長いボードに英語で台詞が翻訳されて写しだされるのである。今日ではこれは当たり前になっているが、当時は何と便利なものかと感動したことを今でも憶えている。

翌日からは典型的な日本人よろしく精力的にロンドン市内を動き回った。大英博物館に行って外観だけを観て、その近くにある王立音楽大学のなかに併設されている楽器歴史博物館に入った。観覧者はわれわれだけでゆっくり見学できた。音楽好きのものにはたまらない場所である。その向かいにロイヤル・アルバート・ホールがある。今回は行けないが将来必ず大英博物館ともども訪れてみたいと心に決めたが20年たってもまだ果たせない。

ロンドンに着いた日にサヴィルロー(Sevile row)を歩いていて常々ほしいと思っていたヘリンボーンのツイードジャケットを見つけ早速オーダーをした。女房もフラノ生地でダブルのオーバーコートを誂えた。その仮縫いに行った。グレゴリーペック(米映画俳優)のスーツを作ったことを誇りにしていた。店の名前はエドワードセックストン(Edward Sexton 現在の店舗)。襟付きのチョッキとベルトなしのスラックスをすらすらとデザインしてくれた。このスーツは20年ほどしたら身についてくるから胴回りは決して大きくしてはいけないよ、と何回も念をおされた。それから20年経ったが、いまでもまだ身につくところまでなっていない。

仮縫いがすむと、リッツのコンシェルジェで調べてもらった古本屋、ヘンリー・サザーン(Henry Sothern Limited)に急行した。オマルハイヤームの『ルバイヤート』(Rubaiyat of Omar Khayyam)とキーツの詩集が目当てだ。前者はエドワード・フィッツジェラルド訳、925部の限定本、発行は1900年。後者はめぼしいものがなかった。しかし『ルバイーット』と同じ棚に並んでいたワーズワースの『ヤーローの再訪と他の詩』(William Wordsworth, “Yarrow revisited, and other poems.)を衝動買いした。これはちょうど私の生まれる100年前の発行である。両書とも美麗本であった。ワーズワースはお目当てではなかったのだがつい買ってしまった。たまたまルバイヤートのとなりに置いてあっただけのことである。イエーツ(William Butler Yeats)もキーツもほしい詩集はあったに違いない。しかしそれを探しているとどこにも行けなくなる怖れがあったので勘定をすませて急いで出た。

タクシーを拾ってキーツハウス(Keats House)へ行った。すこし大げさに聞こえるかもしれないが、キーツハウス訪問は永年のあこがれの場所であった。卒業論文にキーツのエンディミオン(Endymion)を選んだ身としてはキーツハウスとその後ローマで死ぬまでのあいだ住んだスペイン広場を見下ろす部屋はぜひ訪れて行ってみたかったところであった。結核のためわずか25歳でローマに客死した。短い人生で書いた珠玉のオードの数々は結核と闘っているあいだに書かれたものである。私が彼の詩に興味を抱いたのは高校生のときであった。ちょうどLP盤レコードが売りだされたころのことでエドモンド・ブランデンが吹きこんだキーツの「つれなき手弱女」(La Belle Dame Sans Merci)レコードを聴いたときからであった。キーツハウスは共同庭付き二戸一棟の住宅であったものを後に購入した引退女優が一軒に改造したものである。外観とキーツが使っていた居間はほとんど変わってないらしい。庭の芝生に植えられたプラムの木の下であの有名な「ナイティンゲールに寄せて」(Ode To A Nightingale)が書かれたといわれているが今はない。かわりに桑の木が植えてあった。一軒にキーツの恋人となるファニー・ブラウン一家が住み、その隣にキーツが住んでいたのである。

翌日はチャーチルがロンドンで住んでいた屋敷を見に行った。彼が日曜画家であったことは有名である。彼の名前をかぶせた「チャーチル会」が日本にできたのは1949年だった。彼が好んで描いたという場所が庭にあった。彼は50年間に500点以上の作品を残した。そこに暫したたずんでいるとチャーチルの政治家としての懐の広さを実感した。同じ場所からでも対象は季節により朝昼晩とその色彩や表情が変わる。彼は飽きることなく自由に自分を遊ばせたに違いない。人間の幅と奥行き、政治家としての駆け引きや狡さは彼のVサインとともに人々に知られている。チャーチルの軍人として、政治家としての人間より一人の男としての魅力を彼の住処で嗅ぎとった。

英国特産の陶器、陶器のミニチュア建物、精巧な人形、ダンヒル、バーバリー等のブランド店を駆け足でまわった。なかでも気に入ったのはケント(Kent)のブラシであった。いまでも当時買った硬軟3種類の洋服ブラシは重宝している。バーバリーのレインコートはよれよれになったものを大丸東京店のリフォーム部で修理して現在も着ている。

1989年4月、バース(Bath)へ行く。これはやはりリッツの部屋に置いてあった多くの情報誌の中から見つけた’The leading Hotels of the World’ に惹きつけられたのである。リッツに泊まったものだからリッチな気持ちになったのかもしれない。ロンドンから近いバースにあるロイヤルクレッシェントホテル(The Royal Crescent Hotel)に魅せられたのであった。物見遊山に行ったわけではないので端折って書く。

(しばらく体調を崩して筆が進まなかったが、やっと秋らしい季節になったのでまた書き始めたいと思います。今後は時系列に書くことはやめベルギーでチョコレートを開発していった事案、スイスとのかかわり、フランスやイタリアで必ずしも成功しなかった事案についてプロジェクトごとに筆を進めたいと考えています。)

 

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英国のスイーティー、ベルギー視察 (2)

英国のスイーティー、ベルギー視察 (2)

1989年4月11日、日帰りでバーミンガムにあるキャドバリー(Cadbury)の本社工場を須田バイヤーと見学に行った。私がイギリスとベルギーに行くことを知った中野義巳が社長の江崎勝久にこのことを知らせた。それで日本を出るまえに社長から呼び出しがあり江崎グリコ本社でキャドバリーの日本総代理店、株式会社フランシスの社長、ジュリアン・エフ・バートと引きあわされた。彼は典型的な英国商人であった。キャドバリーの製品が江崎グリコのチャンネルで自分が期待しているほど売れていないので何か良い智慧はないか考えてくれということであった。

 

バーミンガムまで1時間半の汽車旅であった。工場に着くと Cadbury International Limited のマーティン・ドレーン(Martin E. Drane)が愛想よく迎えてくれた。事前にダイエーのバイヤーを同行すると伝えていたため精一杯の歓迎をしてくれた。工場はやけに広く大きかった。仕込み室から成型ライン、包装ライン、出荷仕上げラインまでの距離は巨大な工場を取り囲むようにラインが走っている。その長さは2キロメートルもある。ラインの長さが長ければ長いほど製造スピードは速くなり一日あたりの生産量は大きくなる。

 

この馬鹿でかい工場で1カ所不明なところがある。それはミルクチョコレートを仕込むところである。通常、ミルクチョコレートの仕込みはミキサーに砂糖、カカオマス、ココアバター、粉乳、レシチンを入れて攪拌する。ところがキャドバリーは大きく違うのである。ここはクーベルチュールに液乳をいれて攪拌(コンチング)するのだ。そして液乳の水分を飛ばすのである。ミキサーともコンチェとも違う巨大な機械は遠くからしか見せてくれなかったが、この工場の心臓部分だ。温度はどれ位かけるのかとドレーンに聞いたが答えてくれなかった。この行程はどれ位時間がかかるのかと質問しても回答はなかった。これが伝統のミルクチョコレートの作り方であり秘密にしているところだと言う。味はカゼイン臭がつよくチーズのような風味がある。ハーシーのミルクチョコレートも同じような製造法である。日本人には味は重くスイスミルクチョコレートとの味とは比べるべくもない。

 

工場見学中にふとしたことから須田正人はラガーだということをドレーンが知った。途端に彼の態度ががらりと変わり会話は冗長になった。一晩バーミンガムへ泊まっていけとしつっこい。その訳は工場見学の途中のティーブレイクのときに判明した。ドレーンは英国のラグビーナショナルチームの一員であった。昼食は特別なところへつれていくといって”Classic Car Museum Restaurant” に招待してくれた。数々のヴィンテージカーに囲まれて食事をすることも悪くはない。ドレーンが beautiful という料理の味はやはりイギリスの料理であった。味は今ひとつであった。

 

彼は今度日本を訪問したらぜひダイエーを訪問したいとはしゃいだ。どのようなプレゼンを持って行くつもりかと尋ねた。英国で期末セールのときの価格と同じにして、同じ景品をつけると言う。景品は何かと聞くと商品価格の100倍を現金で払うのだという。「ドレーンさん、日本の景品法では、10倍までと決められているので100倍はだめですよ」と須田正人は言った。100倍の景品をつけるとどれだけ在庫が残っていても一掃できるとドレーンは言った。英国のチョコレート屋は楽だ。壽屋の「トリスをのんでハワイへ行こう」とか不二家のミルキーの景品問題など日本での事情を説明した。(1962年に法律成立)ドレーンは大きな落胆を示した。

 

須田バイヤーとのロンドンでの約束の日程が終わると女房が急に不足を言い出した。ダイエーが手配してくれたマーブルアーチの近くにあるカンバーランドホテル (Cumberland Hotel) 4星の典型的なビジネスホテルであった。しかし日本と比べると薄汚れたベッドやトイレが不潔でたまらないという。日本から持ってきたアルコールに浸した消毒綿花も使い果たしそうだと騒ぐ。ソニーの盛田昭夫の常宿、インオンザパーク(Inn on the Park)に電話したがあきはないという。思い切ってリッツ(Ritz)に電話をかけたところ、幸い部屋があるという。早速宿替えをした。

 

金を出せばこんなに素晴らしいホテルがあるのかと女房は目を丸くする。ロンドンでどこのホテルが良いかという情報を事前に知っているかどうかの問題である。インオンザパークのお昼のビュッフェはホテルオークラから本格的な鮨の職人が来ているから良いとか、細かな情報がある雑誌の「ロンドン特集」に書いてあった。ロンドンで鮨など食べたくないと夫婦揃って頷きあった。リッツのレセプションや電話のオペレータが使う英語はまさしく上品なキングスイングリッシュであった。まえのホテルでコックニーCockney)に悩まされていたので清々しい気持であった。

 

“On The Town” という小冊子を見ていた女房がモーツアルトのオペラ、「皇帝ティトの慈悲」(La clemenza di Tito)を観たいと言いだした。チケットをリッツで取ってもらおうと思いオペレータに電話をかけた。今日の今日のチケットはどこでもおいそれと買えない。電話をかけるとすでに sold out だという。プレミアムをつけてもいいと言ったが通じない。じゃあ、もういい、というとオペレータは通じるまで話せという。通じていたのだ。どれくらいプレミアムを払うのかと聞かれた意味が通じなかったのは自分のほうであった。倍でもいい、と答えると、”You did it! Thank you, sir. Good afternoon. Sayonara.” と。

 

リッツのアフタヌーンティーは給仕のオーダーをとる仕草や言葉遣いが、日本のおもてなしのこころ以上のものを身につけていた。これが階級社会のつくりだした真の職人芸だと思った。ことばの最後につける ”sir” ”madam” はとても一朝一夕には身につかない。供されたサンドイッチ、スコーン、ケーキも私の職業上の見地からみても不味くはなかった。調度品のすばらしいこと、窓にかけられた緞帳やレースのカーテンの豪華さ、テーブルまわりの調和のとれたテーブルウエアがいやが上にもダイニングルームの雰囲気を高める。天井にレリーフが施されている。豊かな気持になって嬉しくなった。

 

部屋にもどると電話に赤いランプが点滅している。かけるとオペラのチケットがコンシェルジェに届いているという。プレミアムは20パーセントであった。早速コンシェルジェのところへ行った。ロンドンに来たのであればミュージカルを楽しみなさいよ。今夜のチケットでもプレミアムなしでとれますよ、と親切に言ってくれる。ありがとう、ところでコヴェントガーデンにはどう行けばいいかと尋ね、メモをもらう。

 

映画『マイ・フェア・レディー』で、オードリー・ヘップバーン扮する花売り娘のイライザがヒギンズ教授と出会ったシーンを思いだしてください。ここはロンドンの下町なのです。コックニーを喋らないと肩身が狭いのです。リッツからコヴェントガーデンマーケットに来れば自然に『マイ・フェア・レディー』が想起される。

 

オペラが始まる前に行きたいところがあった。それは「クラブトリー&イーヴリン」(Crabtree & Evelyn)であった。マレーシアナンバーワンのパームオイルの産出会社がアメリカベースでボディーソープを中心にスキンケアー商品と雑貨のマスマーチャンダイズチェーンストアを世界的に展開しているブティックである。ここに近年の流行商品であるベルギーチョコレートのプライベートブランドが発売されていたことを知ったからである。ベルギーチョコレートのプライベートブランドは店頭にならべられていた。ソニークリエイティブプロダクツと江崎グリコを結びつける見本がほしかったというのが本音である。ノイハウス&モンドースの工場で作っているのではないかと思われた。ごくありふれたバーチョコであった。ソニークリエイティブプロダクツにしろ江崎グリコにしろマスプロ商品でなければ採算にあわない。モンドースの工場はマスプロ商品しか製造していなかったが、発注者の「クラブトリー&イーヴリン」としてはブランドが売れているノイハウス&モンドースに魅力を感じるのだろう。ブランド志向は日本にかぎらずマスマーケティングには必要な要素なのであろう。

                                                 <つづく>

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英国のスイーティー、ベルギー視察(1)

英国のスイーティー、ベルギー視察(1)

ソニークリエイティブプロダクツのもつ版権と日本チョコレートの製品をいかにセットにして販売するかに苦心した。カゲもカタチもないものを販売することは夢を売ることと同じであった。要するにコンセプトを販売することで、これは電通や凸版印刷のお家芸で、彼らが江崎グリコに対して手をかえ、品をかえプレゼンをしている。日本チョコレートにはコンセプトを売るノウハウは何もなかった。

 

何かアイディアを得たいときは歩くに限る。私は夏の暑い日差しの中を憑かれたように歩いた。平河町のソニークリエイティブプロダクツから六本木に出て、麻布十番に出た。そこから芝公園のダイエーHOC(浜松町オフィスセンター)を目指した。ふと見ると江崎グリコの看板があった。江崎グリコは塚本にある本社しか知らなかった。芝三丁目にある江崎グリコの看板は東京支社でもなかった。

 

事務所は2階にあった。階段を上ると事務所だ。一人の男が近づいた。西村雅彦だった。(現、ユニカ食品株式会社の社長)前年ベルギーチョコレートについて江崎グリコで講演をした後、熱心に、否、しつこく質問をあびせた男だった。彼は人なつっこく近づき、ここをどうして知ったのかと尋ねた。いや歩いていたら看板が見えたので上がってきたまでだと答えた。彼は、いい人を紹介するからと事務所の中へ引っ張り込んだ。自分の上司、中野義巳を紹介した。名刺には首都圏量販営業企画室室長とあった。西村雅彦は係長であった。

 

お互いに何をしているのかと漠然と質問を投げ交わした。私はいま江崎社長にコンピューター通信を全社的な情報交換に使ってはどうかというようなプレゼンをしている。江崎社長からはキャドバリー商品の販売について何か秘策はないかと尋ねられているとか、曖昧に答えた。この開発室は本社の菓子開発部が取り扱えないような売場の状況にあわせた商品企画を短期間に考えるのだと言って、ビスコの小分け袋を私に見せた。「思いがけずこれがよく売れているのだよ」と、中野は嬉しそうに話す。ころやよしとばかりに、自分の夢を語った。ノイハウスは量産できる製品以外はすべて下請けにだしているので、近くベルギーへ行ってノイハウスの下請けメーカーに日本で販売できるような商品を依頼する計画である、と思っていることを話した。そして自分はソニークリエイティブプロダクツと仲がいいので江崎グリコに紹介したいと、正直に話した。あそこには良いライセンスがあるので一度担当者と会ってみてはどうか、と熱っぽく誘ってみた。

 

この提案は彼らにとっても核心をついた話題であったようだ。中野室長と西村係長は大いにその気になって具体的なプレゼンをしてみろということになった。このときの出会いが、その後のベルジャンチョコレートジャパン(Belgian Chocolate Japan, Ltd. =BCJ)とベルジャンチョコレーツヨーロッパ (Belgian chocolates Europe, nv .=BCE)との取引の始まりであった。

 

独立してますます明確になってきたことは、日本チョコレート工業協同組合の組合員は、ファースト製菓を除いて積極的に日本チョコレートを応援してくれそうなメーカーがなくなったということだった。当時、社長の巴勝利の長男、巴俊信が大学を卒業して入社したばかりであった。本来は東京青年部会に入部しなければならないにもかかわらず、日本チョコレート工業協同組合の関西青年部会に入ってきた。日本チョコレートに忠実屋イトーヨーカ堂彦根の平和堂などの口座を譲ってくれた関東では唯一のメーカーであった。私は、巴俊信にこれからはパソコンの時代になることを熱心に話した。(彼は現在、ファーストセレブレーションの社長であるが、パソコンを武器に祖父が創業した家業をみごとに再生した希有の人である。)

 

ノイハウスにかわるべきメーカーを探さなければならないと、強迫観念にも似た強い思いを当時の私はもっていた。世界ナンバーワン、オンリーワンの商品を持たなければスーパーマーケットのバイヤーにどんどん「中抜き」をされて日本チョコレートのような小さな商社は立ちゆかなくなることを恐れていた。ノイハウスにかわるべきメーカーを探そうと思い足繁くベルギー大使館に通った。ベルギー大使館の商務官、小堀公二がボヴィ美弥子(ベルギー人の学者と結婚してブラッセルに住んでいる主婦)と、伊丹市がベルギーのハッセルと姉妹・友好都市提携をしていて、伊丹市の小西酒造がベルギービールを一手に輸入していることを、紹介してくれた。彼女と連絡をとった。小西酒造の社長、小西新太郎は青年会議所のメンバーであった。こちらから会いに行った。彼はハッセルトの食品業界のコンサルタントを紹介してくれた。トレイサー (TRACER international marketing service bvba) の社長、Tharsi Vanhuysse がその人である。

 

19894月8日、私は一から新しい仕入れ先を開拓しようと心に誓って英国とベルギーへ旅だった。女房を帯同した。まず、ダイエーのロンドン事務所の須田正人に連絡をした。彼はわれわれ夫婦をヒースロー空港まで迎えに来てくれた。ロンドンで行われる小さな菓子見本市、スイーティー(Sweetie)を見学した。須田正人と一緒に見て廻った。しかし、日本人の顔はほとんど見かけなかった。私が何故ヨーロッパまで来たかを須田バイヤーに縷々説明した。ベルギーで本格的なプラリネ(一粒チョコ)を開発するつもりであることを伝えた。ロンドンの市内をくまなく見てまわった。英王室御用達のフォトナムメイスンの店を詳細に見た。ここはすでに高島屋をとおして10年以上日本に輸入されていた食品ブティックである。

 

次に詳細に観察したのはエクセレントカンパニーの誉れの高い「マークアンドスペンサー」 (Marks & Spencer)であった。取扱商品の品種・品目は絞り込まれていた。単品ごとに精査したがアメリカのスーパーマーケットや通販で有名なシアーズ (Sears) のプライベートブランドより遙かにすぐれたものが多かった。マークアンドスペンサーやシアーズのバイヤーは自分の開発した商品について本の1冊、2冊は書けるといわれている。しかし売場を見るかぎりアメリカのシアーズは量的な見地から、イギリスのマークアンドスペンサーは品質面から開発していることがわかった。前者は機械による大量生産方式の商品。後者はマニファクチャラー段階の工場で生産された商品である。原料、生産方法、保管、配送まで伝統に則った正しい中量生産方式の商品である。価格は安くない。アメリカではニーマンマーカスの「エピュキリアン」ブランドの商品群に近いものであった。

 

毎日、昼前(11時半ころ)に、ホテルの隣にあった小型店のマークアンドスペンサーには路上まではみ出る長蛇の列ができる、と須田バイヤーがいう。デイリーのサンドイッチを求める人たちである。試しに商品を買ってみた。ロンドンのどこよりも美味しい味だと女房が太鼓判をおした。翌日もそれを食いたいというので買いに行ったところ12時半で売り切れたとのことで店内は閑散としていた。このことを須田バイヤーに話すと野菜や果物の売場でも夕方には品切れが多いという。デイリーで最も配慮すべき品質管理の要点は鮮度である。品切れをおこすことを前提にしたような仕入量に鮮度を保つ要点があると思った。日本のスーパーを指導するコンサルタントが「機会損失」を防ぐために品切れは悪徳のようにいっているのは間違いではないか。鮮度がいのちのデイリー(生鮮加工食品)と雑貨は違う。

<つづく>

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5月30日からイタリア、フランス、ベルギーのチョコレート工場を訪問してきました。旅行から帰って体調がおもわしくありませんので休稿いたします。

 
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独立の前後

 

独立の前後

私が独立したのは1987年4月22日であった。私は52才になっていた。42才のとき私がもう一生、日本チョコレート工業協同組合の傘下の会社である日本チョコレートで飼い殺しになるかもしれないと恐れ戦いていたときから10年が経過していた。この年の正月に父は死んでいた。独立後の世間の風当たりは予想以上に冷たいものであった。何よりも腹立たしくいまいましかったのは、得意先であるダイエーやニチリューに「日本チョコレートは日本チョコレート工業協同組合の後ろ盾がなくなったのですぐにつぶれる」という風評をまことしやかに流されたことであった。

 

確かに後ろ盾となっていた日本チョコレート工業協同組合の看板がなくなって変わったことはいくらでもある。それまで3ヶ月の手形で仕入れられていた商品代金は月末〆翌月末に現金か1ヶ月の手形になった。この厳しい条件をつけた人たちは20年間取引をしていた日本チョコレート工業協同組合の組合員であった。日本チョコレート工業協同組合の常務理事をしていた父が亡くなったことも組合員の脳裏にあったと思う。なかには「わが社は問屋さんに販売してもらわなくてもいい」とまで放言するものまであり怒るというより唖然としてしまった。年間取引が3億以上もあったのでこの暴言を聞いてもひたすら堪えるよりほかなかった。

 

幸いなことに新しく取引をした正栄食品10億円を限度に3ヶ月のサイトをくれた。正栄食品の仕入が売上げの50%以上を占めていたので資金繰りは随分助かった。

 

大和銀行の態度も一変した。無担保、無保証の条件で一行取引をしていた条件を直ちに変更して、まず私の住んでいる土地建物に根抵当をつけること、そして私の連帯保証を要求した。。1987年は大量消費が美徳とされ、バブルはなやかなりし頃で、当時のわが家は3億円という途方もない評価であった。いまでは更地にして6000万円でも売れない。不動産バブルは5倍に膨らんでいた。90万円で買った美作カントリークラブのゴルフ会員権は1000万円で買いたいと言ってきた。実に10倍以上ではないか。狂気の沙汰である。

 

それはともかく、私は大阪青年会議所が、” Hire the handicapped”身障者を雇用しよう!)というキャンペーンを行ったとき早川電気株式会社1970年にシャープ株式会社と社名変更)の社長、早川徳治に会った。「失明者工場」(1950年に法人化)を自ら案内していろいろ話をしてくれた。その中で特に印象に残ったことのひとつが、事業はいつ潰れるか分からない、そのとき社長は従業員の生活を補償する義務がある。1923年の関東大震災でシャープペンシル工場を焼失したときの辛い思いを語り、売上げがゼロでも1年間は会社が倒産しないで、従業員を路頭に迷わせないだけの内部留保を心がけている、という言葉であった。

 

ダイエーの売上げが年々下がっていく中で、中心的なサプライヤーである東京産業の経営が悪化していく様子を座視することはできなかった。1981年の初夏にダイエーの中抜きや帳合変更が始まった。軟質ビニールでできた可愛いクリスマスブーツを長年納入していたが、チョコレート屋がクリスマスブーツとどんな関係があるのだのひと言で取引をバッサリ切られた。この時の商談を後ろで見ていた江崎グリコの常務が、ダイエーからの帰途日本チョコレートに立ちより、江崎グリコのクリスマスブーツの生産を依頼された。

 

江崎グリコの社長、江崎勝久は大阪青年会議所のメンバーであるところからダイエーの売上げが先細るなか江崎グリコに取引をしたいとこちらから社長に依頼しに行きたくなかった。そんなときに江崎グリコの方からお誘いがかかったのだ。本心から嬉しかった。1981年からクリスマスブーツだけの取引をして5年になり、取引額も5000万円を超えるほどの数字になっていた。これを機会に社長に会って、現在取引していることに感謝の意を表し、できれば東京産業に何か仕事を与えてほしいと頼みに行くことにした。

 

江崎勝久はチョコレートの開発部長と課長を応接間に呼びつけ「東京産業に何か注文を出してやってくれ」と言いつけてくれた。このような手順は私が最も嫌うところであったが背に腹はかえられなかった。それから半年ほどで新製品、「アーモンド棒e」という企画が完成した。日本チョコレートは間に入らず東京産業と江崎グリコとの直接取引にした。日本チョコレートが中に入ると何ら両社にメリットが出ない。なんとか「アーモンド棒e」は製品化されて広島県と静岡県のテストマーケット市場に出た。1986年度に全国発売されたがヒットには至らず間もなく市場から消えた。この時の結果は日本チョコレートには知らされず詳細は不明のままである。東京産業に対するてこ入れとしては、味覚糖のピアピアのアソートに多くの部品が採用されるよう力を尽くした。

 

江崎グリコには独立後、2000年までの13年間、様々な商品開発を手伝った。ダイエーの将来が不透明になってきたとき、早川徳治の言葉を思いだした。経営者の仕事は関東大震災のような事態が起きたときどう対処するかである。現代では大前研一が言うところの「プロアクティヴ・アプローチ」 (Take a proactive approach) である。最悪の事態になる前に、予防的に行動をおこすことである。

 

独立して最初に行ったのは唐突に聞こえるかも知れないが、年来悪化していた痔の手術であった。何といっても健全な身体が第一である。企業経営には身体の手入れから始めようと5月の連休を利用して横浜の痔専門病院に入院した。手術後痛みから解放されて大いに活躍することができた。

 

独立するまでにプロアクティヴ・アプローチとして、ソニークリエイティブプロダクツ、エトワール海渡、ベルギーのノイハウスに営業活動を行ってた。しかしダイエーにかわるべき大口得意先はそう簡単には見つからない。ソニークリエイティブプロダクツには1984年からアプローチをかけ、1985年、1986年の2年間、バレンタイン商品は納入していた。しかし雑貨と混載で配送するため、温度管理ができず、ブルーム等のクレームがあいつぎ1987年の5月に1988年の継続販売は見合わせると結論づけられていた。

 

この結論にチョコレートの購買をしていた部長や課長は大変気を遣ってソニーグループのどこか違う会社を紹介してやろうと言ってくれた。つまりソニープラザやソニーファミリークラブ等への紹介である。私はそれを鄭重に辞退した。それよりもニークリエイティブプロダクツの組織の中で化粧品、雑貨の販売部門と違う部門を紹介してほしいと依頼した。つまりライセンス販売部門である。「モノ」ではない「ブランド」のライセンスを販売する部門にアプローチをかけることにした。

 

私は自分への挑戦として毎年1~2個の商標を特許庁に出願して、商標登録することを目標にしていた。大企業はコンピューターで3文字、4文字、5文字を組みあわせて商品にふさわしいと思われる日本語をアウトプットさせ、その中からめぼしいものを次々と登録していった。良い名前だなと思うものはほとんど登録できなくなっていた。それでも、そんななか私は60個ほどの商標を持っていた。1973年にダイエーの初めてのプライベートブランドを作ったとき、ダイエーは適当な商標を持っていなかった。そこで私の持っていた登録商標の中から「ゴールデンタイムズ」を譲った。ダイエーはその翌年、デイリー部門の商標であった「キャプテン・クック」に統一してしまった。江崎グリコにも資生堂パーラーにも譲ったことがあった。

 

私はかねてから、ソニークリエイティブプロダクツのマスターライセンスの海外プロパティの事業部門に興味を持っていた。「きかんしゃトーマス」、「ピングー」、「ピーナッツ」等無数のライセンスを持っていた。私は日本チョコレート工業協同組合のメーカーに影響力を発揮してプライベートブランドを製造することができなくなっていた、それ故、自分としてもライセンスビジネスを勉強してみたかったのである。

               <つづく>

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ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (9)

ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行 (9)

1987年5月29日(金)

:00  朝食

:00  ホテル出発

9:23        ミラノ発 国際列車  IC 388         

13:00  チューリッヒ着    

     市内視察

1:00    スプリューゲンシュロスホテル

 

1:30  ホームパーティー   

 

前年とは逆にミラノから国際列車に乗りスイスのチューリッヒに入った。チューリッヒは私にとって3回目の訪問であった。今回もシュプリュングリ、オノルド、トイシャーは時間をかけて見た。そしてめぼしいものは見本を買った。いつ味わってもスイスのトリュフは美味しい。期待している通りの味がする。

 

オビさん宅でのホームパーティーも昨年と同じで、ご主人がホストとしてわれわれを接待した。余談になるが1988年2月18日にわれわれ家族は、一家そろってオビさん宅を訪問した。ちょうど末の子供が大学に入学した年だった。この時期を外すと家族旅行はできないと考えて行ったものである。この予感は的中した。その後家族揃って国内、国外ともに旅行する機会は一度もなかった。しかし、私は1986年に初めてオビさん家族と知りあって現在に至るまでチューリッヒを訪れる度ごとに旧交を暖めている。

 

5月30日(土)

:00  朝食

7:30  ホテル出発

9:15   チューリッヒ発  エールフランス 681便         

10:25  パリ着      

     市内視察

18:00  ホテル着 インターコンティネンタル・パリ

19:30    夕食 サヨナラパーティー

 

いよいよ今回の研修旅行も最終段階に入った。バブル絶頂期の研修旅行で贅をつくした旅行であった。各地で空港からホテルに入るまで効率的に贅沢な観光バスに乗って市内観光ができた。この日はまた前年のレストラン、ル・プレ・ド・カタランで昼食をとったりした。このレストランについては以前に詳しく書いたので今回は省略する。ただ今回のように近畿ツーリストの観光バスがレストランの庭に乗りつけるため、「グループ扱い」である。したがって、メインダイニングで食事はとれない。宴会用の部屋での食事である。キッチンから離れると味もそれなりに落ちる。

 

当時、日本はバブルがはじける前夜であった。インターコンティネンタル・パリは西武グループに買収されていた。ここも近畿ツーリストが「海外旅行」を大衆化するのに一役買っていた。確かに以前ならばそう気安くこのホテルに泊まることはできなかったと思われる。本日、この項を書くにあたってインターコンティネンタル・パリについて調査したところ現在は名前が変わっているとのことであった。ダイエーも変わってしまったが、西武グループも同じように往年の面影はない。

 

この旅行に参加したメンバー企業の中にも既に菓子業界の表舞台から消えてしまった企業もある。失われた10年といわれるが、まじめに本業に精を出していた企業は残っているが不動産や株式に手を出した企業はほとんど大きな被害を被った。オーナー企業には大きな痛手を負ったところが少なくない。

 

本題にもどって、この度の「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」は終わった。私と母は1987531日パリ・ノルド駅から列車でブラッセルへ向かった。それはノイハウスとの提携話をするためであった。19866月から日本でノイハウスから派遣されたデイヴィッド・アーノルド(David Arnould)と話し合って、日本でいう「稟議書」のようなペーパーをもって本社を訪れた。本社、ティーネンシュガーのトップマネージメントと会談した。本社の建物は伝統を感じさせる雰囲気であった。

 

昼食は本社の中で前菜、スープ、鴨のローストをメインディッシュとする本格的なランチであった。日本の企業ではこのような応接をするところは聞いたことがない。社長とノイハウス担当重役、顧問弁護士と私の4人分をこざっぱりとした部屋で接待してくれた。家に招待されて、昼食をよばれたような気分であった。昼食をふくめて3時間の会談であった。この会談により、本社の諒解が得られたものとして帰国後、本格的に一号店の開店に向け具体的な作業に取りかかることになった。このあたりの手順は日本と変わらない。

 

「ヨーロッパのマイスターを訪ねる旅行」は私が株式会社日本チョコレートを買収した直後の研修旅行であった。異常な土地騰貴の最中のことあったが、これは、われわれ菓子業界の感覚であって、実際には土地への投資は終わりをつげようとしていた頃であった。いわゆる「バブルの崩壊」の前夜であったのだ。自前の土地、物件を持って、土地の値上がりで生じた含み益を担保にして、また借入をおこして次の店舗を作っていくというダイエーの開発方式が破綻していくのである。水膨れのように肥大化したダイエーの組織はもはやそれまでの経営方式は通じなくなっていった。なりふり構わず「中抜き」を行ってきた背景はこんなところにあったのだ。しかし当時のわれわれには何が起きているのか分からない。毎日ひっきりなしに電話がかかり、先物をやらぬか、株を買わぬか、ゴルフの会員権を売らぬか、と「かね」の話ばかりである。この異常さはただものでないと感じていた。この種の電話は社長にとりつがなくてよいと社員にいいつけいっさい相手にしなかった。

 

さて、2008年6月8日から書きつづけてきた記事はまくらであって、これからが私が後の世代の人たちに伝えたい、否、伝えなければならない本論であると思っている。すでに本論に入っていなければならないのであるが、白内障の手術後、プリズムでは調整できなくなった潜在性斜視を422日に手術をしたため本日まで休稿を余儀なくされていた。1951年に潜在性斜視の手術をして以来再手術をしなければならなかったものを放置していたのである。さいわい経過は順調である。1回の手術で済むのではないかと思われる。医療技術の進歩は想像以上の進歩を遂げている。来週の末から10日ほどイタリア、フランス、ベルギーのサプライヤーを訪問するため、再び一時休稿することになる。

                                        <この項おわり>

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目の手術をうけますので暫く休稿いたします。

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